* 涙声 *




















この数日で、天気は一気に下り坂。
おれは肌に纏わりつく湿気に舌打ちしながら、窓の外に視線を投げて曇天を確かめた。
重い空気は息苦しくて、気が滅入ってくる。降るならさっさと降れよ、と一人ごちた。
特にする事も無く、ごろりと鉄筋の上に寝転がる。正直寝心地が良い訳じゃないけど、この感触には慣れたものだ。何せ小さい頃からのものだから。今じゃ寝てる間に姿勢が良くなるんじゃないかなどと馬鹿げたプラス思考まで持っている。
塒にしているこの倉庫は意外と冬でも暖かく、寝るのには困らない。…まあ、外と比較して、という事だけど。
だからこの場所はおれだけじゃなく、いつの間にかおれを慕うようになっていた不良達もたむろに使っている場所だ。現に今も入口付近で、生意気な奴をシメるだとか、勢力拡大がどうとか、超どうでもいい話をしている姿がちらほら見える。隅のほうでは、機械油を片手に単車の整備をしている奴も居た。
おれはそいつらをチラと見て、帽子を脱ぎ目を覆うように被せる。
この奇抜な色のキャスケット帽は、そういえばいつからか持っていたものだ。いくら趣味が悪いおれでも、こんな帽子は買った覚えがない。かといって貰った覚えも特に無かった。
拾ったんだっけな、なんて過去の事を思い出そうとしてみるけれど手掛かりはなく、早々に諦めた。
そんな事より今は眠い。
おれは反響する不良達のがなり声をシャットアウトするように、目を閉じた。
港に面した倉庫特有の磯臭さに、黴と煙草の臭いが混じっている。ガタガタと揺れる窓ガラスの音を聞きながら、起きた時に雨が降り終わってればいいのに、なんて自分都合な事を思って欠伸をした。




目を閉じた暗闇の中で、おれは何となく一人の男の事を思い出していた。
たまに目の前に現れてはおれをからかって、時には警察の捜査情報を寄越してくる男。
男といっても年齢に大差は無いと思う。何かの病気なんじゃないかと思う位不健康そうに白い肌と、痩せた身体。氷色の目の下にはいつも隈をつくっていた。挑発を込めてそれを指摘すれば、不眠症だからなと小さく笑っていたような気がする。
「・・・・・・暇だな…。」
おれは小さく呟いた。
それなりに過ごしている毎日なのにそうと思うのは、最近この男を見ないからかもしれない。
仲が良い訳じゃない。寧ろ勝てないと分かっていながらいつも勝負を挑んでたのはおれだ。この地域で一番強いおれに快勝しては、何を奪う訳でもなく去ってゆく。本当、何がしたいのか分からない奴だ。
「・・・・・・・。」
認めたくはないけれど、目標になっていたのかもしれない。
とりあえず毎日を生きる為に過ごしていただけのおれが、初めて持った目標と呼べるもの。
だからこそ最近アイツを見なくなって、勝ち逃げされたような気がして面白くない。
アイツの警察絡みの情報は何故か信頼出来た。
けれど…情報提供者が居なくなった、ただそれだけじゃない。
何か、もっと。もっと大切な。
そう、アイツの言葉にはずっと惹きつけられる何かがあったから。
「ああ、もう。」
訳のわからない喪失感。何というか・・・もにょもにょした気持ちに、おれは溜息を吐く。
こんな天気だから妙な気分になるんだ、と自己完結して頭を睡眠に切り替えようとしても、脳は中々言う事を聞いてくれない。そればかりか、最後に会ったのはいつだったか、もう一年は過ぎたっけ、とか、実は警察関係者じゃないのか、とか、大学に行ってるって言ってたから就職したのかとか何とか。そんな考えが止まらない。
意識してそれらを止めることを放棄したおれは目を閉じた暗闇の中、この色はあの男の髪の色みたいだ、なんて思いながら眠りについた。







「おはようございます、船長!」




「何か温かいものと毛布、持ってきますよ。」




「それでも…やっぱりおれ、船長の事心配ですよ。」




「あ、船長おかえりなさーい。」






「ねえ、船長…。愛してますよ。」







「―ッ!!?」
ガバリ、跳ねるように飛び起きた。
バクバクと鼓動する心臓がやけに煩く、寝汗が酷い。
全身を駆け抜ける焦燥感。
「あ、あ・・・、あ、」
呟く声は意味を成さない。
あんなやつのことを考えながら眠ったから、だろうか。
今しがた視た夢、いや、夢なんてものじゃない程リアルな夢。



揺れる足元、少し痛んだ船、青い空、どこまでも広がる海、見慣れた人・・・。



見慣れた・・・?
違う、おれは咄嗟に頭を振る。汗が一滴落ちたのが見えた。
今までこの汚い街から出た事もなければ海なんてテレビでしか見た事ないし、まして船なんて乗った事はない。そこで生活してる奴らを見慣れた、なんて思う訳ないんだ。
そう否定するおれの心とは別に、確かにそれらを知ってるという心もある。
正直意味が、分からない。
・・・・自分のことなのに。
傍には起きた際に飛ばしてしまったのだろう、見慣れた派手な色の帽子が視界の端で寂しげに転がってた。
「おいおい、どうしたんだよ。」
「何かあったのか?」
おれの様子を見かねた不良達が口々に声をかけてきていたけど、それすら右から左だ。一々返事をする気にもなれない、というより返事をする余裕がない。目を見開いて夢の出来事を反覆しながら、おれはキャスケット帽を凝視する。
「・・・今・・・、いま、の。」
実際、頭の中は空っぽだった。
けれど夢の情報は、容赦無く流れ込んでくるみたいで。
「おれ・・・、おれ・・・。」





「船長、」




そう呼ぶ声は姿は紛れも無く己のもので。




「何だよ。」




振り返り、答える顔は見慣れた―…





「あ、あ、あああああああああああっ!!!」
目が熱い、そう思った時にはもう視界が霞んでいた。
霞んでいた、なんてもんじゃない。
ぼとぼとと落ちるものが涙だって認識出来た時には世界の全てが真っ白だった。
頭の中も視界も何もかも真っ白、それなのに鮮明なのは見慣れた姿が一つ。
おれは思わず頭を抱え込んだ。
「おれ、おれ・・・!船長、どうして…!」
知ってる、知ってる知ってる。
けれど知らない、知らない知らない。
不思議な夢、で片付けてしまうにはあまりにリアルで、あまりに懐かしすぎる。
けれど実際体験した事だと言い切るほどおれは夢想家でも何でもない。
でも、それでも、涙が止まらないのは何でだ!?
「何だよこれ!知らない、知らない・・違う、おれは!!」
悪戯っぽく笑う顔、怒った顔、拗ねる顔。
知ってるんだ。
「夢じゃない、あれは夢じゃない・・!!」
おれのものとは到底思えない涙声が倉庫中に、頭の中に響く。






―皆で、ホットケーキを分けて食べた。




「あの時、そう、船長が食べたいって!腹が減った、って!!」




―能力で悪戯されそうになった事だってあった。




「すごく、凄く楽しそうな顔してたんだ!!」




―船を降りろ、と言われたのを勘違いした時も。




「おれが、おれは、あの場所が好きで、離れたくなくて・・・っ!ずっと・・・!!」






こうなるともう、意味が分からずとも記憶と言う情報は芋蔓式におれの中へ入り込んでくる。
「ずっと、ずっと感じてた・・・!」
足りない何かがある、といつも漠然と思ってた。
けどそれは境遇とか居場所とか。とにかくそんな感じの思春期特有のものだろうと見て見ぬふりして、喧嘩で埋めて、生きる為に何でもしてきた。求めたくても、求めたいもの自体が分からないから。そうするしかなかった。
足りない何か。
本当に欲しかったもの。
親からの愛情でも、暖かい家庭でも、信頼できる友達でも騒げる居場所でもない。
今の夢、いや、情報でそれが何か、ようやくハッキリした。
まるで霞みがかっていたその霧が晴れたみたいに。
おれが、本当に欲しかったものは。
ずっと、欲しかったものは。
「すぐ・・・傍に、居たんだ・・・・・・。」
中身の無い掠れた声で、おれは呟く。
思えば、気付いたら話しかけられていた。
始まりなんて、この転がってるキャスケットと一緒で思い出せない。最初はこっちが喧嘩を吹っ掛けた気もするし、向こうから話しかけられた気もする。もしかして警察に追われていた時だったかもしれない。
たまに現れては他愛も無い話をして、おれが怒って喧嘩を仕掛けて。
そんで、本当に危ない時は警察の情報持ってきたり、手を貸して貰ったり。逃げ道貰ったり。
「・・・・・な、のに。・・・・・おれ・・・っ・・・・おれ・・・。」
ぐしゃ、と髪を掻き毟って頭を振る。
今まで流した事がなかった分を流すように、涙は止まらない。



「・・・・もっと重要で他愛のない話、しようぜ。」



「おれは!!」
最後に会った時に放たれた、あの言葉。
それが今になって、胸に痛いほど突き刺さる。
アイツは・・・!違う、船長は、どんな気持ちでそれを言った!!?
そう、船長の事だ、あんな顔であんな台詞を言ってたんだからこの記憶が無い訳がない!!
「うっ、あ・・・、ああああああっ!!」






「お前、名前は?」




「あ、いや。名前、は―…その…。」






「……。そうだな。じゃあ、キャスケット、ってのはどうだ?」







「船長!船長、船長船長船長!!!」
気付けばおれは、雨の中を駆け出していた。
倉庫の視線を集めていたような気もするけど、今のおれにとってそんな事は重要じゃない。
かけられた声も冷たい雨も、全部全部、全部いらない。
時刻は朝方に近い筈なのに、天候の所為もあって辺りはまだ暗かった。
けどおれは庭のようなこの倉庫街を走り抜ける。心臓の音が、泥を跳ねる音より煩い。
あてなんて無い。
医学部という以外、大学名も知らない。
それでも、その姿を求めて走らずにはいられなかった。
「船長、船長、船長!!!」
肺が痛んでも、あらん限りの力で叫び続ける。
そうでもしないとおれが…、おれ自身が壊れてしまいそうだった。
傍から見れば馬鹿な事をしているかもしれない。
けど、夢のような情報でも、おれには確信があったんだ。おれ自身が体験した事じゃないし、おれは知らない。それでも、おれは知ってる。あれはおれの日常なんだ、って。身体の全部がそう叫んでる。身体の全部が求めてる。



たった一つの存在を。



「船長!!船長!!!」



思い出したんだ。



「船長!!」



あの男が・・・船長が、もし『この記憶』を持ってたとしても、絶対口にはしない。
何も知らないおれを、見守ってる。幸せになってほしいからって。
そういう人だったから。
「船長!!!」
地面を次々と濡らす冷たい霧雨は、おれの体温も奪ってく。







「お前、名前は?」




「あ、いや。名前、は―…その…。」




「……。そうだな。じゃあ、キャスケット、ってのはどうだ?」




「ええ?何スかそれー。どこ見て言ってんのかバレバレ。」




「いい名前だろ?」




「人の名前としてはどうかと思いますけど。」






「もう二度とその帽子を手離さないように、な。」






「・・・・・・。・・・いい・・・名前ですね。」




「だろ?」







悪戯っぽく笑う顔。
「何処に、何処に居るんだよ・・!!」
引っ掴んできたキャスケットを、力いっぱい握りしめる。
「お願いだから、おれにもう一度その顔を見せて下さいよ!!」
ねえ、船長、おれ此処に居るよ。
敬語なんて使った事ねーのに、それでも使い慣れてる。




会いたい。




「船長!!!」
分厚い雨雲の中へおれの声が吸い込まれてゆく。
それでもおれは、たった一つの姿を求めて叫び、駆けずり回る。








それは、冷たい雨が降る3月の事だった。















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キャスが思い出したよ編。



100314 水方 葎