* 悲しいの話 *





















「悲しいって何だっけな。」
まるで読みかけの本の在りかを思い出そうとするかのように、ローが呟いた。
向かいに座っていたペンギンは、正直、まだそんな事を思う心が残っていたのかと目を瞬かせる。
「えー?どうしたんですか、いきなり。」
キャスケットがベッドに寝転んだまま口を挟んだ。
ローがいきなり突拍子もない事を言い始めるのは今に始まった事ではない。けれどそれがある度にキャスケットはこうして律儀に理由を尋ねる。理由が無いのが理由だろうに。
ローは顔を上げた。そして彼を見ていたペンギンと目が合う。
けれどどちらも逃げようとしなかった。
「喜びは分かる。益になる事があったり、欲を満たすと昂る感情だろ。」
淡々と言うロー。
機械的に分析するものでもないだろうに、とペンギンは思うが口には出さずに小さく頷いた。
「怒りも分かる。不利益な事や理不尽な事があって、自分の中で折り合いがつかないと湧く感情だ。」
けどよ、と続けるローの顔には何の表情も無い。
「悲しいって何だっけな。」
最初に問うた言葉を再度呟く。
ペンギンは視線を絡めたまま、そっと右手をローの頬に伸ばす。
「えー、船長は泣いた覚えとか、ありません?」
ベッドのスプリングの音をたててキャスケットが上体を起こした。ついでに眺めていた地図を脇に放り投げる。次の島に想いを馳せていた心ごと放り投げたらしい。
「餓鬼の頃には泣いた事だってあるんじゃねえ?」
あとはそうだな、産まれた時にだって泣くだろうよと他人事のように言葉を綴るロー。つまり自覚して泣いた覚えはないという事だろう。
キャスケットは口をへの字に曲げる。
「・・・他に。最近ないんですか。」
そうしている間にもペンギンの掌はゆっくりとローの頬を包み撫ぜる。その温度に、ローは少しだけ目を細めながら考える。
「泣くのと悲しいのはイコールじゃねぇだろ?泣くだけなら生理的な、欠伸とかセックスでも出る。」
「欠伸とセックスは違いますけどね。」
「欲には違いねぇけどな。」
「屁理屈ですよ。」
「立派な理屈だ。」
キャスケットががっくりと項垂れた。降参のような呻き声も忘れない。
彼が口で、いや、口でなくともローに勝てた試しなど無い。問答の最初のように律儀に理由を尋ねたり、負けると分かっていて応酬をするなど、口を閉ざしたままのペンギンにしてみれば時間の無駄としか言いようがない。
それでもせずにはいられない性分なのだろう、それはキャスケットの美徳であり悪徳である。
このような応酬でさえキャスケットの中で折り合いがつかなければ怒りに成り得るのだ、とペンギンは先程のローの"怒り"に対する言葉を今の事象に当てはめていた。
その折り合いとやらは個々に差があり、また、対する物や者によっても変わってくる。そしてローという男に対しては、自分達の沸点がどこにあるのか分からないほど高い、という事を二人は自覚していた。
「例えば・・・おれなら、お気に入りの銃が駄目になると悲しいです。」
「壊れたな、とは思う。」
「悲しいって思わないんですか?」
詰っている訳ではないキャスケットの言葉。
ふ、と息を漏らしたように笑ったのはペンギンだった。
その手は変わらずローの頬を撫ぜている。
「壊れて、使い物にならないなら、部品バラして組み立て直すか、捨てるしかないだろ。」
ローは淡々と答えているが、キャスケットは"人間"に対してもそう言っているように聞こえる。眉を顰めて立ち上がり、ローの傍まで歩み寄った。まるで親の答えが気に入らない子供のように。
「お気に入りですよ?」
「いくら気に入ったとしても、壊れたんだろ?」
「悲しくないんですか。」
「喪失感と悲しみはイコールか?」
「・・・・それ、は。」
同じと言いかけてキャスケットは口を閉ざす。この二つは似て非なるものだとキャスケットは知っているからだ。例えば、仲間を失った時に感じるものは確かに喪失感であり、それは悲しみだ。
けれど一緒ではない。
悲しみというものは喪失感という言葉で表せるような、簡単なものではないのだ。
いつの間にか垂れていた重い頭を上げて、キャスケットは射抜くようにローを見やる。覚悟の籠った目を向けても、ローはぼんやりと虚空を見詰めたままペンギンの掌に頬を預けていた。
意を決したように口を開く。


「例えば、おれやペンさんが・・・死んだら、」




喪失感だけですか。




そう言おうとした言葉は、爆ぜるような乾いた音よって中断された。
キャスケットが、殴られたのだという認識をするのに数秒もかからなかった。
「・・・ペン、さん。」
「黙れ、キャスケット。」
喉の奥から響くような重低音に、キャスケットは背筋が粟立つ。叩かれた頬は決して軽い衝撃ではなく、むしろ本気に近いものだった。右手が柔らかくローの頬を包んでいなければ、今頃キャスケットは壁に激突していたかもしれない。
血の味はしないものの、麻痺したかのように動かない頬に手を当てて口を開くキャスケットだったが、何を言うべきか言葉が見つからない。そのまま唇をぐっと噛み締めて床の木目板を睨むように凝視していると、険呑な空気に似つかわしくない、あるいは一番似合っているのかもしれない虚無の様な声が室内に響いた。
「お前らが死んだら・・・?」
きょとりと小首を傾げるローは、唐突にパシリと小さな音を立ててペンギンの右手を払う。払った片手でテーブルに肘をつき、緩慢な動作で顎を乗せて唇の端を上げた。
そうだなあ、と呟きながら氷のような瞳を動かして、ペンギンとキャスケットを視界に入れた。
「おれが居ないところで死んだら呆れる。おれを庇って死んだら・・・褒めてやるよ。」
言外に「それ以外は論外だ」と切り捨てるローの言葉に、キャスケットとペンギンは心の奥底から湧き起こる仄暗い"喜び"を確かに感じていた。
ローが悲しまない悲しみは喜びかもしれない、と思いながら。






fin.





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船長にも殴られた事なかったのに!!
・・・って書きたかった。嘘ですすいません。




100907 水方 葎