* 「全部嘘だ。」 *




















日はとうに落ち、海も空も闇で染まる時間帯。
談話室の空気は穏やかで静かである。波打つ海の音、それに合わせて船体が揺れて生ずる僅かな軋み音、時折ローが本の頁を捲る小さな擦れた音、ペンギンが書類に文字を走らせる紙を引っ掻く音、キャスケットが銃の手入れを行う僅かな金属音。
「あ。」
キャスケットが上げた小さな声は、何事も無かったかのようにその場へ溶け込んだ。
誰も顔を上げようとも声をかけようともしない中で、独り言のようにその呟きは続けられる。
「今日、エイプリルフールだったんですね。」
キャスケット自身、銃の細部から目を外してはいない。彼は銃を頻繁に使う訳ではなかったが、有事の際の命綱である事に変わりはない。手抜きや余所見が死に繋がると言っても過言ではないのだ。
けれど考えている事をそのまま出してしまうタイプなのだろう、キャスケットの口が閉じる事はなかった。手を休めずに言葉は続く。
「あーあ…折角だから、嘘、吐いとけばよかったなあ。」
カチャリ、キャスケットの手元で何かが嵌め込まれる音が部屋に響く。
それと同時にローが頬杖をついたまま、チラとキャスケットを一瞥する。
「何が本当か知ってんのか。」
「え?」
ここで初めてキャスケットが顔を上げてローを見る。しかしローの視線は既に本の中へ落とされていた。台詞の意味が分からず、キャスケットは小さく首を傾げた。明るい色の茶髪が揺れる。
「どういう意味です?」
何が本当か知ってるのか。
頭の中で問いを反復しても、質問の意味が掴めない。というより、嘘を吐いておけばよかった、という呟きに対する台詞としては不適当にさえ思えた。
ローが唇の端を歪めて笑う。
「例えば、だ。今お前が見てる世界は全部、死んだお前が見てる夢だ。そう言われたらどうする?」
「死んだおれが、見てる・・・夢?」
「そう。実体のお前は死んでる。これはお前が見てる夢。」
「ありえませんよ。」
キャスケットは眉を寄せて、ローの言葉を即座に否定した。自分が死んでいて、尚且つ現実が夢だなんてある筈が無いのだと。しかしローは本の文字を目で追いながら、キャスケットの返事に切り返す。
「何でだ?」
「だって、ちゃんと感覚ありますもん。」
「夢だって痛いと思う事あるだろ。」
「それは・・・。」
ふと、以前見た縁起の悪い夢を思い出してキャスケットは視線を落とした。そう昔でもない、二度と見たくない夢。何せ敬愛している船長に不要だと言われ、首を落とされる夢だったのだから。
見たくないどころか思い出したくもないキャスケットは、過去の夢を頭の隅に追いやり再び顔を上げた。
「でもでも、ここは現実です!」
食ってかかるような勢いのキャスケットとは対照的に、ローは緩く息を吐いた。
「この世界に居る人間は、誰も死んだ事なんてねぇんだ。なのに何でそう言い切れる?」
「・・・・。」
「この世界は本当か?」
畳みかけるようなローの質問にキャスケットは答えに窮する。確かにこの世に居る限り誰も死んだ事なんて無いのだから、現実が現実かどうかなど分かりはしない。けれどもそれを認めてしまえば、自分というアイデンティティさえ奪われてしまいそうだった。
つまるところキャスケットの沈黙は保身だ。
「言い方を変えるか。」
けれどローは手を休めようとせず、ゆるりゆるりとキャスケットを侵食する。
「脳の伝達は簡単に言えば電気信号だ。身体のありとあらゆる部分は脳と電気信号で繋がってる。」
「あ、それは聞いた事あります。」
話題が変わった事にほんの少し肩の力を抜いたキャスケットが口を挟む。
幾分明るい返事に、ローは軽く頷いた。
「五感が感じてるもの全部、電気信号によるものなら。物質が目の前に本当に在るとは言い難いだろ。」
いよいよキャスケットは頭が混乱してきたらしく、俯いたり手を顎に当てたりして考え込み始めた。そっとペンギンを盗み見るが彼は話に参加する気がないらしく、ただ黙々と書類に線を引いたり数字を書き込んだりしている。助けを求めるのは諦めた。
「触ったり、見たり、食べたり、飲んだり、笑ったり。それらは無いかもしれないって言うんですか?」
ローが咽喉の奥でククと笑った。
「お前の意識は本当にお前の中にあるのか?お前は誰が動かしてる?本当って何だ?」
キャスケットの背筋が強張った。ローの言葉に自分の中を探ろうとしても答えなど出てくる筈もなく、ただ意識は不安定に揺れる。テーブル、椅子、カップ、明かり、紙、本。周りの物全てが電気信号となって己に襲いかかってくるような錯覚すら覚える。
思わずキャスケットは自我を保つようにぶんと首を振った。
「お、おれは・・・そんな話がしたかったんじゃなくて。ただ、ほら、おれは実は恐竜から生まれたんだー、とか、ツチノコを見た事があるとか、そういう・・・。」
「嘘吐きノーランドみたいな?」
「そう。そうです。そんな話がしたかっただけで…。」
他愛も無い話の一つとして呟いただけだと、縋るように言うキャスケット。
しかしローは無情に斬って捨てる。
「案外ノーランドだって嘘吐きじゃねぇかもよ。」
「・・・・。」
「そも、嘘なんてこの世にねぇんだ。」
真実が無いように。
本を閉じて、視線だけをキャスケットに寄越したローの顔に表情は無かった。
「本が本であるなんて嘘だ。もしかしたら本は海かもしれない。海は空かもしれない。お前は恐竜から生まれたかもしれないし、ツチノコだって見たかもしれない。」
「それは・・・おれ、見た事ないですよ。」
「本当に?」
まるで槍の如くキャスケットの胸にその言葉が突き刺さる。けれど見た事がないものは無い。産まれたのだって間違い無く人間からだ。そう思ってキャスケットは曖昧ながらも頷いた。
変わらずローの表情は動かない。
「記憶は、記録。覚えてなければ、無かった事。忘れてしまえば、無に還る。」
唄うようなローの言葉にキャスケットは思わず目を瞬いた。
橙の瞳が氷の瞳と交錯する。
「本は本であって、本じゃない。」
「…おれ、は…。」
「海は、空となって浮かんでる。」
「現実、とか。真実とか。」
「無限とはつまり有限だ。」
「分かりません!!」
ガタリと弾くように席を立ち叫ぶキャスケット。
その様子に思わずローが目を丸くして頬杖を解く。ペンギンもつられて顔を上げた。
「おれは何が現実とか夢とか、自分が感じた事でしか分かりませんし、船長が言いたい事の半分も理解出来ないような馬鹿です!」
「・・・自分で言うなよ。」
思わずローが口の中で呟くが、キャスケットの駄々を捏ねる子供のような叫びは止まらない。
「でも多分船長のその理屈で言えば、おれが現実だって思っちゃえばそれは現実って事でしょ!?おれが夢だって思ったら夢って事でしょう!?じゃあ今おれがこうしてこの船に居て船長とペンさんと同じ部屋に居るのは現実です!!現実なんです!!」
自分に言い聞かせるようにキャスケットは言い放つ。
「おれにとって船長は船長でしかなくて他の誰でもないように、この世界は嫌な部分も含めてこの世界なんです!この世界がおれにとっての本当なんです!!」
詰まらない独り言から始まった筈なのに何故こんな話になっているのかと思わないでもなかったが、キャスケットの思考はそれどころではない。ただ、今見ている世界は夢かもしれないという可能性を否定したかった。
確かに不意に意識が途切れ、別の場所でむくりと起き上がるのかもしれない。
それとも自分はただの電気信号の塊で、己など存在していないのかもしれない。
「・・・例え、もし船長が言ってる事が『本当』だとしても…、おれにとっては『嘘』です。」
それは随分都合のいい話だろう。自分が良しとするものだけを見てしまう事になるのだから。
そうは思ってもこの場所だけは譲れない、とキャスケットは唇を噛んだ。何を犠牲にしても、森羅万象の理が歪んだとしても、海が空だったとしても。キャスケットが守りたいと思った人や物や場所だけは、真実で居て欲しいのだ。
ローはきょとりとしたままキャスケットを見ている。
その横で溜まりかねたように漸くペンギンが口を開いた。
「境界線を外しすぎたな、船長。」
「・・・本当か?」
「嘘だ。」
ローの問いに即座に返すペンギンは、手元の書類を纏め始めている。
どうやらペンギンにとっても境界線などどうでもいい事で、キャスケットと同じ気持ちらしい。ローは息を漏らして笑った。
キャスケットは怒っているような泣く一歩手前のような顔でローを見ていた。興奮状態にあるのか、唇を引き結んで何かに耐えるような目をしている。
「分かった。分かったから落ちつけよ。お前の言いたい事は分かってる。」
元々感覚で物事を捉えるキャスケットにこのような話題は不似合いだと分かっていた。分かっていつつも仕掛けたのはローであるが故に、その矛先を収めるのもまた彼の責任だ。
しかし取り敢えず座れと促しても従う様子は無い。最早何をそんなに意地になっているのか、キャスケット自身にも分からなかった。この場所を夢に、無いかもしれないものにしてほしくない。その一心だった。
睨むように氷の瞳を見詰めるキャスケット。対してローもキャスケットを見上げていたが、ふとその手元に視線を移動して、あ、と声を漏らした。
「銃。部品バラバラじゃねーか。」
「えっ!!?」
ローの言葉にキャスケットが弾かれたようにテーブルの上へ視線を落とす。先程の勢いで投げ出したか叩き付けたか、自分でも記憶が無かったのだ。
しかし、銃は薄汚れた白いクロスの上に丁寧に置かれていた。
ついでに言うと、整備の残りは銃口付近を磨き上げるだけである。
「ちょ…、船長!!」
「嘘だ。」
からからと笑うローに、心臓飛び出そうでしたよ!と非難の目を向けるキャスケット。
「あぁもう、メンテ最初からやり直しかと思った〜…下手したら壊れたかと…。」
楽しそうなローの表情を尻目に、脱力しきってへなへなと椅子を直し腰掛ける。そのまま背中を丸めてテーブルの上へ突っ伏した。勿論愛銃は脇へ退かして、だ。
「そう怒んなよ。エイプリルフールだろ。」
つい今しがた頭が混乱する話をしていた人がどの口で言う、と恨みがましい目でキャケットはローを見た。
その膨れ面にローはくすくすと笑ってキャスケットの癖っ毛へ手を伸ばした。わしわしと犬猫にするように乱暴に撫でる。
「ほら、そろそろ寝るぞ。」
「・・・結局さっきのは何なんですか…。」
撫でられて悪い気はしないキャスケットはそのまま目を瞑ったりくすぐったそうにしながら問う。しかし答えは別のところから返ってきた。ペンギンだ。
「船長の遊びに付き合っていたら書類が終わらないところだった。」
「・・・・。」
だから珍しく口を挟まなかったんですか、とか、結局玩具の標的はおれ一人なんですね、という言葉をキャスケットは敢えて飲み込んだ。こういう時ペンギンに抗議して、勝てたためしは今まで一度も無い。
テーブルと紙がぶつかり合う軽い音を立てて、書類にクリップを挟む。先のローの言葉とペンギンが筆記具を片付け始めた事で、もうそろそろ撤収の時間だと知れた。何だか不完全燃焼だ。
ローの事なので完全に遊びとは信じきれない。
否、遊びだとしてもそれは人を試しているのだとキャスケットは思った。
それとも、ローですら持て余しているが故に、他者へ投げてみたくなった疑問なのかもしれない。
だとしたら自分は自分なりの答えを示せた筈だ、とキャスケットは太股のホルスターへ銃を差し込みながら考えた。正解かどうかはローの知るところだろう。
「後で部屋に行く。」
「ん。」
「あ、おれも行きます!」
「分かった分かった。」
書類があるから先に行くぞ、と断りを入れて出て行ったペンギンの後姿をぼうっと視界に入れながら、キャスケットはクロスを丁寧に畳む。ローも持ってきた本のいくつかに栞を挟み直したりカバーを直したりしていた。
もうそこに先程までの自分が自分でなくなるような、不安定な空気は無い。
キャスケットは思わず口を開いた。
「ねえ・・・船長。」
「あ?」
「・・・いや、やっぱり、何でも無いです・・・。」
聞きたい事は頭の中で上手く纏まってくれない。まるで液体のように手から零れ落ち気体のように掴み辛い。諦めて小さな溜息一つ、キャスケットは談話室を出ようとするローの背中を見送る。
ローの考える『本当』と『嘘』。
この世の存在、理、有無、夢、現実。
何を聞いてもきっと自分には理解できないだろうし、何を聞けばいいのかすら分からない。咽喉に何かが引っかかったような感覚を残しつつも、今のキャスケットにはどうする事も出来なかった。
明かりを消し、残しものが無いか確認して談話室を出ようとするキャスケット。
先を歩いていたローが不意にキャスケットを振り返った。
「キャス。」
「はい?」
クロスをポケットに捻じ込みながら顔を上げると、暗がりの廊下に佇むローの姿。明かりを落としている為にその表情は見て取れない。が、気配は笑っているように感じる。

「全部本当だ。」

「・・・え・・・・・?」
キャスケットの背後の掛け時計が、0時を指している。
廊下にローの姿は、もう無い。
「あ、ちょ、船長待って下さいよ!今のどういう―…」







fin.





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エイプリルフールは害の無い嘘を吐いても許される日であって、嘘を吐く日ではないよ。




100401 水方 葎